スイスに学べ  土井淑平

    ―― SEALDsと民主主義再考                                    
SEALDsの登場  「SEALDs」は3・?後の脱原発運動から直接生まれたものではありませんが、SEALDsが3・?後の脱原発運動を背景に持つことは疑いありません。鳥取にはSEALDsのメンバーはいないはずですし、わたしはSEALDsのメンバーと付き合ったり、交流した経験はありませんが、SEALDsについて書かれた、ないしは、SEALDsのメンバー自身が書いた何冊かの単行本を手掛かりに、かれらの行動と考え方をフォローしてみたいと思います。  

わたしが参考にしたのは、高橋源一郎×SEALD(s)『民主主義ってなんだ』(河出書房新社、2015年)、SEALD(s)『民主主義ってこれだ』(大月書店、2015年)、古谷経衝・奥田愛基SEALD(s)『愛国ってなんだ ― 民族・郷土・戦争』、福島香織『SEALDSと東アジア若者デモってなんだ!』(イースト新書、2016年)、といった文献です。  

SEALDsが生まれるきっかけは、二〇一二年六月の東京の官邸前の反原発デモに、明治学院大学の学生だった奥田愛基が仲間とともに「見に行く」というかたちで参加したことにあるようです。

かれの言い出しによって、反原発デモを見学して討論する「TAZ」(the Temporary Autnomous Zone/一時的自立空間)という集まりが生まれました。デモに参加して渋谷のクラブで勉強会を持つというスタイルです。  

そのTAZのメンバーを中心に、二〇一三年一二月に結成されたのが「SASPL」(Students Againsut Secret Protection Law/特定秘密保護法に反対する学生有の志の会)です。SASPLもデモを行ったあとクラブでアフターパーティを開くというスタイルだったそうです。  

SASPLの活動を前身に二〇一五年五月に結成されたのがSEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy-s/自由と民主主義のための学生緊急行動)です。これは特定秘密保護法に引き続く集団的自衛権の行使容認など憲法改正のための安保法制に反対する無党派の学生グループと言ってよいでしょう。担い手は一〇代から二〇代前半の若い世代です。SEALDsの派生団体は関西、東北、琉球、東海にも生まれています。  

SEALDsは各班(デザイン班、デモ班、サロン(イベント)班、コンテンツ班、インターナショナル班、広報班、出版班、物販班、映像班、コールセンター、会計)に分かれ、代表をつくらない代わりに副司令官制を取っています。各班のリーダーが副司令官です。かれらはチラシといった言葉は使わずフライヤーと呼び、シュプレヒコールではなくコール&レスポンスと呼んでいます。  

『SEALDSと東アジア若者デモってなんだ!』を書いた福島香織は、「まるでサークル活動の延長のような軽やかさで、政治運動に取り組んでいる」とSEALDsの人たちを評しています。むろん、SEALDsは「特定の政党」の下請けなどではありません。とにかく、かつての全学連や全共闘やセクトの学生運動とは政治文化をまったく異にしている、と言っていいかと思います。  

SEALDsは「特定の政党を支持するわけではありません」と自ら断わったうえで、「包括的なリベラル勢力の受け皿が誕生することを強く求めます」「現政権の政治に対抗するために、立憲主義、生活保障、平和外交といったリベラルな価値に基づく野党勢力の結集が必要だと考えます」とうたっているように、いわゆる政治的な無関心派やアパシーの徒ではありません。かつての全学連や全共闘やセクトの学生運動とは政治文化をまったく異にしているとはいえ、かれらが圧倒的な大衆消費社会の只中で政治に関心を向け、無党派の政治的な自己主張を展開している学生グループであることは間違いありません。この点をわたし評価します。  

SEALDsは自らのホームページで、「立憲主義」「生活保障」「安全保障」の三分野で明確なヴィジョンを明らかにしています。わたしはSEALDsの見解にはほとんど同感ですが、ただ1点、「生活保障」の分野の「持続可能で健全な成長」という考え方に同意できません。わたしは経済成長という考え方を抜本的に改める必要を感じます。資源が枯渇し環境が汚染されるこのような時代には、むしろ「ゼロ」ないしは「マのイナス成長」を受け入れることこそ「健全」、と考えます。経済成長の神話は過去の時代の遺物、という認識を持つしかありません。  

たしか、SEALDsは昨年五月の発足時に、活動は今夏の参院選までと決めていたようですが、実際に八月一五日を持って解散するようです。奥田愛基だったかメンバーの一人は、「「もったいない」と思う方がいたら、その人たちがまた新しいことを始めればよい」と言っています。 まさしく、その通り。もともと、「学生緊急行動」として立ち上げたグループですから、その「緊急行動」が終われば、解散も当然なわけで、ここが党派や党派の下請けと違うところとわたしは納得します。  

二、民主主義再考  SEALDsの人たちは、政府や議会の在り方への批判を込めて、「民主主義ってなんだ?」と問いかけました。ここでは、かれらの意見に論評を加えるのではなく、わたし自身が民主主義についてどう考えているかをかいつまんでお話ししたいと思います。SEALDsの問いかけは、わたしに民主主義を再考するきっかけを与えてくれたのです。  

まず、民主政ないしは民主主義は、大きく直接民主政と間接民主政、あるいは、直接民主主義と間接民主主義の二つのタイプに分けて考えることができます。直接民主政ないしは直接民主主義の源流は、古代ギリシアの都市国家ポリス、中世ヨーロッパの都市国家コムーネあるいはコミューン、そして、中世から近代に至るスイスのカントン(邦または州)と連邦国家にある、とわたしは考えそれらの成立過程を歴史的に追究しました。いずれも小国家で、市民たちが直接広場に集って討議し、政治の最高決定権は市民自身が持つという形態です。逆に、直接民主政は小国家や自治体でないと不可能です。  

民主政や民主主義の語源は、古代ギリシアの「デモクラティア」ですが、「デモクラティア」という言葉は「デーモス」(民衆または人民)の「クラトス」(権力または支配)からきています。  

その古代ギリシアの都市国家も、最初から民主政だったわけではなく、誰が実権を握っているかによって、一人支配(王政または僭主政)、少数者支配(寡頭政または貴族政)、多数者支配(民主政)の三つの国制に大別されました。それゆえ、民主政はデーモス(民衆)の成長とともに出現した政体で、わたしが近刊の『民主主義の歴史的考察 ― 古代ギリシアから現代アメリカまで』(綜合印刷出版発行、星雲社発売)で苦労して追究したテーマでもあります。  

日本は明治以来、富国強兵策を取って大国主義と軍国路線を突っ走り、日清・日露戦争をはじめアジアへの干渉と侵略の打ち続く戦争を経て、太平洋戦争でアメリカに敗北し破局を経験しました。しかし、日本の大国主義が必然の選択だったわけではありません。明治政府は一八七一年(明治4)一二月から一九七三年(明治6)九月にかけて、欧米に岩倉使節団を派遣したさい、大国だけでなく小国をも視察の対象として、その見分を『特命全権大使米欧回覧実記』に記しています。  

岩倉使節団の留学生として、フランスでルソーをはじめかの地の哲学や史学を学んで帰国し、のちに自由民権運動の論陣を張ったのが中江兆民です。兆民は明治政府の富国強兵策を批判し、平和外交策を提唱しますが、この平和外交策は小国主義にも関係します。当時、英仏のようなヨーロッパの大国の行き方と引き換えに、兆民が注目していた小国はスイス・ベルギー・オランダの三国です。  

明治の自由民権運動の水脈を継承する大正デモクラシーを背景に、「大日本主義」への徹底的批判というかたちで帝国主義的海外膨張を批判したのが、「東洋経済新報」に拠る自由主義者の三浦銕太郎と石橋湛山でした。  

わたしは中江兆民が挙げているヨーロッパの小国のなかでも、スイスの行き方に注目しています。直接民主政の母国とも言われるスイスは、それぞれのカントン(邦または州)の広場の「ランツゲマインデ」と呼ばれる住民集会または青空集会で邦の政治を行なってきましたが、この直接民主政の制度は人口の増大などの変化に対応できず、現在では二六州のうち二州でしか行われていません。  

そこで、スイスの各州と連邦国家は、直接民主政に準ずる「半」直接民主政の制度として、イニシアティブ(発議権)とレファレンダム(住民投票)を導入しています。むろん、スイスにも代議制の議会は存在します。しかし、市民にとって重要な問題は、議会まかせにせず、市民のイニシアティブに基づいて発議し、所定の署名を集めたらレファレンダムにかけて決定する仕組みとなっているのです。連邦国家のイニシアティブは年間五〇〇件以上に及ぶと言われています。  

ひるがえって、日本やアメリカや西欧では、民主主義と言えばもっぱら代議制民主主義を指します。スイスのような直接民主政に対して、間接民主政と呼ばれるものです。この間接民主政の制度たる代議制の議会は、選挙で民意の代表者を選出し、自らの権力の行使をその代表者に託する政治制度です。  

しかし、市民が誰しも否応なく実感させられるのは、国会議員の選挙であれ都道府県や市町村の議会の選挙であれ、有権者はすべての問題で自らの意思をその首長や議員に託したわけではないのに、首長や議会の方ではあたかもすべての問題で意思を託されたかのように振る舞まうという横柄な倒錯が見られます。  

たとえば、有権者の意思は個々の課題ごと政策ごとに違うはずであるにもかかわらずです。代議制民主主義はマスコミの時代の巨大党派による寡頭制民主主義でもあります。ここから自民党のような一党支配が生み出されます。アメリカの場合は民主党と共和党の巨大寡頭制の交互の支配です。  

ルソーは『社会契約論』のなかで、「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」、と議会主義の虚構を批判しています。  

わたしは、今日の代議制民主主義の限界や倒錯を認識し批判しても、代議制民主主義を完全に否定する者ではありません。それを持たない軍事独裁制や全体主義よりははるかにましであることはたしかです。しかし、原発や米軍基地や安保問題など重要な問題では、すべてを議会にまかせるのではなく、スイスのように市民が重要と考える問題は、イニシアティブ(発議権)をもとにレファレンダム(住民投票)にかける権利を保障すべきだと考えます。  

スイスのような徹底した制度化は異例とはいえ、つい最近、イギリスが欧州連合(EU)を離脱すべきかどうかを国民投票にかけ、離脱を選択し決定したことはご承知のことと思います。  

一九七九年三月の米国スリーマイル原発事故のあと、オーストリアとスェーデンで、一九八六年四月の旧ソ連チェルノブイリ原発事故のあとイタリアとスイスで、それぞれ脱原発の方針が決定されたのは国民投票によってです。チェルノブイリ事故後の国民投票で原発の廃止を決定していたイタリアは、ベルルスコーニ政権が原発再開を目論んで国民投票を実施したが、折からの福島第一原発事故の衝撃をもろに受けて、なんと95%の圧倒的多数で否決されました。  

住民投票や国民投票が制度化されていない日本でも、各地の自治体が住民投票条例や核廃棄物拒否条例を独自に制定して、法的有効性はないとはいえ、原発の立地や核廃棄物の持ち込みに政治的な歯止めをかけてきました。  

代議制民主主義といわれる間接民主主義は総花的な代表選挙にすぎず、たとえば原発や基地や安保といった抜き差しならぬ重要な課題について、もともと投票した候補者にすべてを委託したわけではないのに、当選した議員たちはあたかもすべてを受託したかのように、恣意的に判断し行動します。このような重大な欠陥を持つ代議制民主主義にすべてを委ねることはできず、少なくとも原発や基地や安保のような抜き差しなら重要な課題については、市民が発議権と住民投票ないしは国民投票によって決定できるシステムを求めざるを得ません。  

住民投票に対して、これを「民主主義の否定」とする議員や議会関係者の声がよく聞かれますが、とんでもない思い上がりです。住民投票は機能不全の代議制の議会を補完するものでこそあれ、それを否定するものではありません。住民投票に対するもっとも強い批判が議会や議員から発せられるのは、かれらの自己保身のゆえでしょう。それゆえ、わたしは代議制の議会をとりあえず批判しつつ肯定したうえで、その限界や欠陥を補完ないしは矯正する仕組みとして、発議権(イニシアティヴ)と住民投票(レファレンダム)の制度を提唱し、それがかりに制度化ないしは法制化されていなくとも、政治的状況を見て可能なら住民投票を実施すべきだと考えます。  

こと民主主義に関しては、代議制民主主義で帝国を運営し、全世界に帝国主義の網の目を張り巡らすアメリカではなく、イニシアティブ(発議権)とレファレンダム(住民投票)を制度化ないしは法制化している小国のスイスに学べ、というのがわたしの結論です。    

【註】本稿は、二〇一六年七月六日に鳥取大学地域学部の地域学入門の講義「脱原発運動とSEALDs」の後半部をもとに、書き下ろしたものです。